77のブログ

aska_burnishstone's diaryのコメント集、【他】

【哲学】   山本芳久 / トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

 

 

12月から仕事が猛烈に忙しくなったため

全くブログを更新できず、いやインターネットすら

できない状態だった。

 

多忙な仕事をこなしつつ、

正月は実家に帰省しながら、その間も本を読んではいた。

 

正月の帰省する

新幹線の中で読むための本を読んだ

 

 

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

 

 

山本芳久さんのトマス・アクィナスの本である。

著者自身、盗聴事件との関連で一度触れてはいるため、

私はこの方の本を一度読んだことがある。

 

【まとめ】 まとめ② - 77のブログ

 

私自身、スコラ哲学に興味はあるが

敷居が高く、かつ私の問題との距離感が若干あるため

積極的に手をつけてこなかった。

 

いずれちゃんと学びたいと思っていたこともあり

この本を手に取った。

 

この本はいわゆる入門書のような

概観をしているが、入門書以前の導入という位置づけが

正しいだろう。

 

著者が書いているように、

トマス・アクィナスの思想を体系立てて読者に

呈示するようなものではなく、

トマス・アクィナスの思想の面白いところを

つまみ食いに的にわかりやすく読者に呈示するものである。

 

トマスの徳論、宗教改革とスコラ哲学など。

 

体系立てた入門書を読むならば

稲垣良典さんの著書を読んだほうがよいと思う。

 

私は、現在

ジャン・リュック・マリオンという

哲学者に興味を持っているため、

今後もトマスに対して一定の興味を持っている。

 

その際は、

稲垣良典さんの著書を

徹底的に読もうかなと思っている。

 

さて、山本さんの

トマスの本を読んだ感想としては

正直なところ、何か学んだことは何もないが、

やはり私にとって重要な宗教改革について思いを巡らせた。

 

 

 

帰りの新幹線で、上記の本を読んでみたが、

この本はプロテスタンティズムの政治的意味を

歴史的に解き明かしてる本で、宗教改革がいかに政治的な意味をもったかが

書かれている。

 

すぐに図書館に寄贈したが、図書館に寄贈すると共に

また、この本を借りてきてしまった。

 

 

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

 

 

この本は素晴らしい。

新書にするだけでなく、ぜひとも岩波文庫青本にしていただきたいくらいだ。

 

以前、レビューで書いたため、中身の話はしない。

 

【仕事】 天職 - 77のブログ

 

この本を再び読んで、新しい視点を獲得した。

 

宗教改革の本質は

偶像崇拝の禁止にあるということである。

 

私がこれまで研究してきたことは

大きく分けて二つある。

 

一神教

・他者論

 

この2つが

偶像崇拝の禁止によって

密接に結びついてきた。

 

これから以下の本を読んでいく。

 

マックス・ウェーバー「古代ユダヤ教

○ジャン・リュック・マリオン「存在なき神」

○モッシェ・ハルバータル「偶像崇拝の禁止」

レヴィナス「観念に到来する神について」

レヴィナス「全体性と無限」

 

中島先生のレジュメを読みながら、

カントの3批判書を読む予定もあったが、それは後に回す。

 

最後にAmazonのレビューを読んでいたら

素晴らしいレビューを発見したため、ここに残しておく。

 

 

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

 

 

 

 

 

2011年2月25日
 
ジジェクの『パララックス・ヴュー』という本を読んでいたら、柄谷行人の名前が出てきた。

そういうわけで、懐かしく思い、久しぶりにこの柄谷行人『探求1』を取り寄せて読んでみた。名著である。レヴィナス的な絶対「他性」をマルクスの「貨幣」とウィトゲンシュタインの「言語」を介して鍛え上げている。レヴィナスの大著『全体性と無限』の副題は「外部性(exteriorite)についての試論」である。本著はまさに柄谷氏による≪他者≫あるいは≪外部≫性についての所論なのである。

話は簡単である。「貨幣」(マルクス)も「言語」(ウィトゲンシュタイン)もそれらが通約/公約/交通できるのは、なんらかの「内輪であらかじめ了解されている取り決めごと」を前提としているからである。「売る」ことも「(言語を)教える」ことも、その事前の「取り決めごと」がなくては成り立たないはずである。その「取り決めごと」というのはウィトゲンシュタイン風に言えば「言語ゲーム」であり、レヴィナスが謂う処の「内部性 immanence」や「同 meme」に属するものである。柄谷氏の目論見はトートロジーの渦に巻き込まれた≪独我論≫からの「態度の変更」であり(現象学的な言い方をすれば)ノエマノエシスに宿ることのない≪他者≫への飽くなき「探求」にある。柄谷氏は≪他者≫が≪他者≫であり続ける絶対的な≪他者≫の≪他者≫性を「探求」したのである。

柄谷氏の謂わんとしていることはおそらく科学哲学で謂う処の「共約不可能性incommensurability」のことなのかもしれない。すなわち「通約/公約/交通できないもの/こと」つまり「同じ標準で算出できないもの/こと」「同じものさしでは計れないもの/こと」の出来(しゅったい)する可能性のことである。それを柄谷氏は≪外部≫あるいは≪(絶対)他者(性)≫と呼んでいるのだ。

この『探求1』は柄谷氏の宗教の書でもある。要は、柄谷氏は偶像礼拝を禁じているのである。「貨幣」や「国家」は偶像礼拝の最たるものであり、宗教は「言語ゲーム」においてのみ聖化され、輝き、成立するのである       

のかもしれない。