【哲学】 座右の書を探す旅
私はこれまで本を読んできたが、
本を読む端緒というのが以前にも書いた
司法試験の挫折とカウンターカルチャーを葬りさったことにある。
当時、これからどう生きるべきかがわからず、
司法試験時代に教材を一元化する趣味を身に着けたことによって
一冊に自分の人生を集約できる本を探してきた。
10年以上継続している趣味である。
本を探し出して気づいたが
当時の私の人生観を集約させようと思って本を探しながら
本に触発されて、私の人生観がどんどん変わっていくことだ。
不思議な感覚ではあるが、
それだけ世の中にある本の中には
面白いものがあるということだろう。
そういった経験の中で
「この1冊こそ座右の書である」と確信を持てた時が
3回ある。
①トルストイ「懺悔」
卒論でウィトゲンシュタインを扱った私が
ウィトゲンシュタインの評伝を読んでいくうちに
ウィトゲンシュタインがトルストイの「要約福音書」を
携えて第一次世界大戦に従軍したことを知った。
そこから「要約福音書」を知ったが、
この本は福音書から奇跡を完全に排除した形で作られた本であり
キリスト教の真髄を「悪に手向かうな」に求めるような形で
作られた本である。
人を殺した者を死刑に処することは
悪に対して悪をなすことであるため、それは善とは言えない。
故に悪に対しても善を貫くことが本当の善であるという思想に基づいている。
一時期、この思想に惹かれながら
図書館から借りた要約福音書全文をコピーして
毎日読んでいたことを思い出す。
②パウロ「ローマ人への手紙」
本を読み始めた当初、
ニーチェに狂っていた時期があった。
今でもこの本はいい本であると思っている。
「君の意志するものが
永遠に回帰することを意志する方法で
君はそれを意志せよ」
これが永遠回帰の定言である。
1回だけ意志されるものを
すべて意思決定から排除することを通じて
永遠に回帰されるものだけを選択する方法としての
永遠回帰。
永遠を感じる瞬間を探し求める。
そのためにも
このルサンチマンを研究した結果、
結局、これは弱者の虚栄心であって、聖パウロが糾弾する
律法主義(強者の虚栄心)の裏返しであることに気づいた。
そこからパウロにはまっていた。
訳に問題があるだろうが、それでもこの本は美しい。
映画監督パゾリーニは晩年、
聖パウロの殉教を、ニューヨークを舞台に描こうとしていたようだ。
そこに、アクティヴィストとしてのパウロが見える。
パウロの主著であるローマ人への手紙は
信仰義認。
行為によっては罪しか認識しえず、
罪人でしかない人間を救ってくださる
神による愛を信じることによって人間は救済に至る。
信じる者は救われる、というより
信じられる者は救われているといった信仰の感覚。
信仰の強度が救済の強度に直結する。
【音楽】 Cocco / Heaven′s hell - 77のブログ
パウロによる信仰義認は
私の読書経験上、最大の私に対する変化をもたらしたが
聖書を読み進めると気づくが、パウロを先取りしている書がある。
義人ヨブはサタンに唆された神の試練に耐える。
「何の利益もなく、人は神を信仰するか」
良いことをすれば良いことがあり
悪いことをすれば悪いことがある。
これは応報主義と呼ばれるが、
結局、これは自己愛ではないか?
自己愛を超えた神に対する愛はあるのか。
この応報主義とは
先の律法主義の土台にある考えである。
自分を利するために神を利用する。
このことから
応報主義とは偶像崇拝であることに
気づいた。
ルターの宗教改革の本質とは
一神教は原点回帰することがよくわかった。
【哲学】 山本芳久 / トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書) - 77のブログ
偶像崇拝の禁止。
この概念を血肉にするために
私はこれまで本を読んできたことに気づき
三度目の確信に近づきつつある。
現時点における
私の座右の書は出エジプト記である。
おそらくここで固まるだろう。
長旅もいよいよ終盤に向かいつつあるのを感じる。
1,主が唯一の神であること
2,偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3,神の名をみだりに唱えてはならないこと
4,安息日を守ること
5,父母を敬うこと
6,殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7,姦淫をしてはいけないこと
8,盗んではいけないこと
9,隣人について偽証してはいけないこと
10,隣人の財産をむさぼってはいけないこと
こうやって長い旅を振り返ると
私も本を読むことで相当人生観が変わったことがわかる。
私はもうキリストに興味がない。