77のブログ

aska_burnishstone's diaryのコメント集、【他】

【仕事】   荒井裕樹

 

私は若い頃、弁護士を志し、
Boss the mcのような求道的な表現者になりたかった。

 

そのロールモデル
大学からの帰宅時の本屋のビジネス書コーナーで
見つけたことを覚えている。

 

プロの論理力!―トップ弁護士に学ぶ、相手を納得させる技術

プロの論理力!―トップ弁護士に学ぶ、相手を納得させる技術

 

 

以前、Mixi
この本に関するレビューを書き、
それを盗聴盗撮集団に盗まれ、加工・公表されたことで
「意識高い系」という言葉が流行した。

 

http://spade77.hatenablog.com/entry/2017/04/09/162235

http://spade77.hatenablog.com/entry/2017/04/09/163058

 

この本は
ボロボロになるまで読んだ。

 

弁護士とは、
組織に埋もれることなく、
個としての存在を強く主張し、
個人の力で公平な裁判所で
真実を追求できる仕事であると。

 

弁護士に関連して書かれた本は
これまでたくさんあるが、どの本よりも
私の心を掴んだのがこの本。

 

当時の私が
理想としていた生き方としては
完璧にはまった。

 

そして、
この方はこの本の続編を書いている。

 

世界基準の「論理力」 武器としてのロジカルシンキング!

世界基準の「論理力」 武器としてのロジカルシンキング!

 

 

この本はあまり話題にならなかったが、
面白いのが前述の弁護士という仕事をあっさりと捨て去り
ファンドマネージャーに転向したという話。

 

「スポーツ選手のように
 世界を舞台に個人の力で勝負をしたい。」

 

これが、荒井先生の根本スタンス。

 

しかし、
弁護士業務における国際実務は
国内企業が抱える国際的な問題がほとんどであるため、
厳密な意味で世界基準で弁護士実務ができるわけではない。

 

そこで、
ファンドマネージャーに転向したといった話。

 

著書にはそのような理由付けから
弁護士からファンドマネージャーに転向したとあったが、
私はそういった理由とはまた別の理由として
「法律の力よりもカネの力が勝る」ことを悟ったから
転向したように思えた。
(ご専門の民事事件の最終帰着地点はカネである)

 

それはさておき、
どこまでもこの人は
かなりの高学歴であるのに
プロスポーツ選手に強い尊敬の念を
持っているのだなと驚いた。

 

私のような
貧乏人とは全く異なる方であるが、
私はこの方にとても強く影響を受けてきた。

 

私はスポーツに全く興味が無いのに
荒井先生に憧れて、「イチローの言葉」などを読むほど
この方に影響を受けた。

 

なぜそれほど影響を受けたか?

 

当時、大学生であった私にとって
「職業とは何か」というのは人生における最重要問題であった。

 

http://spade77.hatenablog.com/entry/2017/06/24/114003

 

その最重要問題に対して明確に答えが与えてくれたのがこの本。

 

当時、大学生であった私にとっては
オレンジデイズのような青春を生きることに

何一つ意味を見出せなかった。

 

私にとって
何の職業に就くべきかは
私のアイデンティティに直結していた。

 

どう生きるべきかは
何の仕事に就くべきかといった表現に
言い換えられた。

 

人生を通して
やり抜ける仕事を通じて
共同体(歴史)に自分の生きた証を残すこと。

 

それが人生の目的である。

 

この目的を果たすための
ファーストステップとして職業選択があった。

 

身震いしながら
その選択をしなければならないのに
なぜオレンジデイズのような青春を生きねばならないのか
全く理解に苦しんだ。

 

そういった怠惰な青春を送ることで
魂の不死を証明できなくなると思うと絶望的になった。

 

私は若い頃

カウンターカルチャーに捉えられたが、

一度も音楽をやったことがなかった。

 

その理由の一つは

上述のように音楽をやることと

魂の不死を証明することは私にとって

無関係であったから。

 

そんな思いを抱きながら

自分の存在を必死に証明しようと苦しんでいる過程で
見つけ出したロールモデルが荒井先生であった。

 

私は弁護士として
個人の力で正義を探求し続けられる仕事をしたいと
当時、思っていた。

 

しかし、
人生はうまく行くわけではなく
ロースクールに入学することをやめることで
弁護士を諦めた。

 

それと同時に、
カウンターカルチャーを葬り去ると同時に
それに取って代わる精神的支柱を作るべく
哲学書をずっと読んできて、今に至る。

 

人生を通して
やり抜ける仕事を通じて
共同体(歴史)に自分の生きた証を残すこと。

 

そういった人生観は一切持っていない。

 

今、私は
弁護士になりたいとは
全く思っていない。

 

共同体とは、
「俺はおまえより偉いんだ」を
証明する舞台でしかない。

 

だとすれば、
そういった政治的関係から離れて
私の存在などこの世になかったかのように
私は死にたいと思っている。

 

もはや魂の不死など信じていない。

 

いつの間にか、
共同体のあり方と
個人のあり方が完璧に切り離された時代を
生きてしまっていた。

 

個人の幸福と
社会の幸福は無関係である。

 

カネを得ること。
カネを得ることを通じて、共同体を葬り去ること。
労働の目的とはそれ以外にない。

 


人生とは不思議なものだ。

 

人生において何をなすべきか?

本当にやりたいことのみをやるべきである。

 

本当にやりたいこととは何か?

 

読書を通じて得た教訓は以下の通り。

 

・虚栄心が混じらない
・人の役に立たない
・楽しまない(=結果に満足しない)
・好奇心を持たない
・相乗効果を狙わない

 

以上の
5つの要件を満たしたものが
本当にやりたいことである。(処世的パレーシア)

 

私は何の仕事に就くかよりも
今後とも本を読んでいきたいと強く思う。

 

というより、
本を読んで物を考えること以外に
生きがいはない。

 

最近、
そういったことが
はっきりするようになった。

 

このように当時の生き方に
影響を与えた書物が語ってる内容とは
全く別の生き方を私はしているが、
そうであったとしても、あの当時感じたものは
残ってはいるし、繋がっている。

 

「プロの論理力」の最終章にて
「いつ死んでも悔いの残る人生を生きたい」という話がある。

 

マルティン・ルターの言葉。
「死は人生の終わりではない。人生の完成である」というように
いつ死んでも悔いの残らない人生こそ素晴らしい人生であるという

考えに対して反発している。

 

死んだ時に悔いが残らないならば、
ある時点においてやるべきことがなくなっていなければならない。
そうではなく、常に生きがいに満たされた人生を作るべく
死んだ時にあって悔いが残っているような、未完成の形で、
やるべきことがたくさん残ったまま死にたい。

 

つい先日まで
ハイデガーVSカッシーラー
有名な「ダヴォス討論」という議論を読んでいたが
まさに上述の話そのまんまに思えた。

 

ダヴォス討論―カッシーラー対ハイデガー

ダヴォス討論―カッシーラー対ハイデガー

 

 

死ぬ前に後悔することとは
所詮、死によって条件付けられた欲望でしかない。
本当にやるべきこととは
生死を越えた無条件的な位置にあるはずである。

 

よって、パレーシアという観点からすれば
ハイデガーよりカッシーラー(新カント派)の方が優れている。

 

思い出は深いところで繋がっている。

思い出は尊い